『学び合い』の『』を外す、『』に拘束されないということが話題になることが多いです。
確かにゼミ内は『学び合い』で運営されていますが、一度たりとも1人も見捨てるなとか言われたことがないし、一度たりとも授業開始の語りと授業終わりの語りを聞いたことはありません。要するに本に書いてあるようなことは一度もしていません。先生が書いた本なのに。
また昨日は上越『学び合い』の会でした。ある『学び合い』の実践者の方がいました。しかしながら本に書いてあるようなことはしてないと言います。むしろ『学び合い』ではあれ?と思われることもするとおっしゃってました。例えば途中で授業を止めたり、教員の強制力は時には武器になったりするとか。でも僕自身学んできたものと違うから「あれ?」って思うはずなのになぜかすんなり落ちてきたり。
こんなことを踏まえて『』を外すってどういうこと。??と考えてみました。
今現時点での僕の結論です。
『』に拘束されないということは
”自分自身が子ども達への願いを持つこと”
だとたどり着きました。
『学び合い』は1人も見捨てないとか一生涯の幸せとか教員誰もが一度は素敵なだなと思い描くワードがてんこ盛りです。それが自身の願いになることはもちろんあるし、実際本気でそう思ってる方もいるでしょう。でも多くの方って自分の経験とか出会いからもっと素敵な願いを持っていることが多いのではないかなと考えます。本に載ってる願いよりも自分の出会ってきた数多くのもの、人から構築される願いの方が素敵なはずです。
上越『学び合い』の会で出会った方のお話もその先生の願いを聞いた時、僕はすんなりそのお話が落ちてきた気がします。
その願いを叶えるために子ども達に与えるものはたとえ『学び合い』にあるものではなくても良いと思います。
でもその願いを子ども達に伝え、そのためにできることを一貫して行っていく。
そして子ども達が動き始める。
『学び合い』だけど『学び合い』じゃない、『』を外す、拘束されないってそういうことなのかなと。