みんなが当たり前に「できる」ということが自分はできないからそれが辛いという場面に遭遇しました。
その子はいつも授業を真剣に頑張ってる子です。
テストはできないことが悔しいと言っていたそうです。
一生懸命な証拠だと思い、心に来ました。
そして自分の授業を振り返り。
僕は課題に「〜できる」という課題をよく作ります。でも「できる」ってそんなに大切か。?と思ったのです。
僕が子どもたちを見ていて「いい姿だなあ」って思う時って何かが「できた」時じゃなくて誰かと協力したり、自分がその課題を達成するために手段を考えていたり、誰かに心だけでも寄り添っていたりする時です。
となるとそもそも「できる」ことが目的ではないと感じたのです。
そこで今日からの授業、算数では分度器を初めて触れる授業です。課題をいつもだったら
「分度器の使い方を知り、P○を解き説明できるようにする。」
にするところを
「分度器の使い方を知り、P○をみんなで乗り越える。」
としてみました。たったちょっとの差です。
どうして言い方を変えたのかを説明しそのまま活動に。動きがいつもと違った気がしました。
何より僕が嬉しかったのがいつも書いてる振り返りシート。出来ないことが辛いと言っていた子はいつも「〜〜ができなかった」と書いていたのですが「分度器を少し理解した」と書いていたのです。
学校ができるようになる場所とかできなくて辛い場所みたいなそんな圧のある場所じゃなくて出来なくても大丈夫、でも1歩踏み込んでみよう、仲間がいるならみたいな安心感のある場所になったらいいなと思います。
最後に相談に乗ってくれた大学院の苦楽を共にしたゼミの仲間に感謝です。あの時間がなければ今日の素敵な子どもたちの姿に気づけなかったんじゃないかなと思います。