戸田の内緒話。

自分の日常で思ったこと、感じたことをつらつらとひっそり書きます。

一年の計は元旦にあり。

遅れましたがあけましておめでとうございます。

 

気づけば2024になっていました。

そして昨日学校が始まりました。

 

去年はなんとなく自己研鑽をできたりできていなかったりと自分の弱さが垣間見える年でした。

 

校長先生のお話から「一年の計は元旦にあり」というお話がありました。

 

子ども達と一緒に2024の目標を考えました。

僕は自己研鑽に励む年にするということを決めました。自分の弱さから蔑ろになっていたブログをまたコツコツ再開していこうと思います。

 

 

個人面談を通して。

先週は個人面談がでした。

希望者のみなのですが保護者とお話出来る機会なので時間が許す限りたくさんのお話を聞けたらなと思っていました。

 

誰かの家で遊ぶことが増えた。

 

こんなお話を聞く機会が増えたなと思います。

中には今まで遊んだことのないのに今年からだ。なんてお話をいただくことも。

 

何かを共に乗り越えた時に繋がりが深まっているのかななんて微かに思い描いたりしています。

 

同時にまだ仲間と友達が混同してる場面が多いなと思います。全員が全員友達は難しいし無理だと思うし全員が仲間であって欲しいなと思います。

 

捨てた。

1か月前のことです。

 

「お前が◯◯なんだからお前がこれやれよ!」

「先生!◯◯さんが牛乳当番なのに牛乳やりません。」

 

気づけば掃除の時間になっても給食の片付けが終わらないことがちらほら。

 

そこで役割を捨てることにしました。今日の当番は〜班だよというグループだけ決め、あとは子どもたちに委ねることに決めました。その役割を捨てる時も以下のようにお話しました。

 

最近前述したような話がちらほら僕の耳に入ってくるんだけどそんな言葉聞くと僕はなんだかモヤモヤした気持ちになります。これじゃあ押し付けみたいに聞こえるから。押し付け合うクラスに僕いたいって思わないから。みんなにも今一度自分たち、自分の行動発言を振り返って欲しいなと思います。

 

すると子どもたちで話し合って自分たちが何をするか決め、協力し合う姿が沢山見れました。

 

いいなと特に思ったのは普段は参加できない子も役割がないので参加出来る日は自然と参加することができるようになったのです。

 

足し算引き算、これからもどうしたらいいか思考を止めずにいきたいなと思います。

 

 

 

 

 

気づけば。

気づけば歳をまたひとつ重ねていました。

 

大切な人、友達、職場の先生方とたくさんの方に嬉しいことに祝って頂きました。ありがとうございます。

 

まだ僕が21の頃、中学生時代に仲の良かった友達に誕生日メッセージを送った時です。

 

「20過ぎたら誕生日おめでとうなんて言うな!歳を感じるだろ。」

 

なるほどたしかに歳を取ればとるほど自分の歳を気にするようになりました。でも戸田は誕生日おめでとうは歳をとったから送るものではなくて、いつ死んだっておかしくない僕たちが一年を生き抜くことが出来た今におめでとうだと思うのです。

 

また来年も再来年もこの先もずっと歳をとって気づけばたくさんの方に囲まれているようなそんな自分でいられるように誠実に生きていきます。

 

ついでに誕生日ってちょっと離れちゃった人でもまた繋がることの出来るちょっと特別な日だと思うのです。

 

 

言うは易し、行うは難し。

個人のマグネットを毎回貼り出して授業をしています。休んだ子の分も貼っています。

 

春。

「どうして貼るの?」「休んだ人がいたら全員達成できないじゃん。」

 

夏。

貼ることに対しての違和感はなくなったのか休んだ子の分はそのまま貼ってありました。

 

そして秋。

インフルエンザも流行りだし、休む人が増えて来ました。すると1人の子が「どうしたらこのマグネットは動かすことが出来るのかな?」

僕が持っている、思いつく手段は日頃から言っているものも含めて全部上げました。頷くその子。その日休んだ子のマグネットはそのままでした。

 

そして今日。学校に登校していた子は全員課題を達成しました。嬉しいことです。

 

そして4人休んだから4個のマグネットのはずが3個しか。

 

マグネットをどうしたら動かすことができるのか聞きに来た子が言いました。

「明日、来たら私が絶対今日の授業を伝えるんだ。動かしていい?」

 

嬉しくてたまりませんでした。確かに僕はあげた手段のひとつに自分が見捨てないとさらに固く誓って動かすのもありだよね。と言いました。

 

言ったり思ったりするのはそこまで難しくありません。でもそれを行動に移すのはとっても難しいし勇気のいることだと思います。

 

もちろん休んだ子のためにノートを作ったり、できることを一生懸命模索していたりする子はこれまでもたくさんいました。今日だって。

 

でもはっきりと可視化されたからでしょうかこんなに嬉しいのは。きっとその勇気に僕が心を打たれたんだと思います。

 

やっとコロナが落ち着き、でもインフルがまた流行り、と落ち着かないこの時代。

教室にいなくたってその場にいなくたって全員達成ができる、見捨てないそんな未来を描かずにはいられない今日でした。

夢と金。

最近、所属していたゼミ生との交流をしたからか、気づけば僕は僕のTLを賑わせているこの本をとっていました。大きくわけて感じたことは2つ。

 

ひとつめ。

自分の認知度をあげていく。

 

「夢=認知度-普及度」という方程式がありました。認知度をあげるためにヴィトンは1階の店舗が多いんだとか。ヴィトンはみんなが知っているけど持っている人は少ない。だから価値があるんだと。

 

自分というブランドの認知度を上げ続けることはとてつもない夢だと感じました。どんなに認知度が上がっても僕は1人しかいないから。

 

ではヴィトンではなく自分の認知度をあげるためには何ができるか。1つ目はやっぱり毎日投稿。2つ目に普及度をあげてくださりそうな方と繋がること。自分の弱さにとても刺さりました。

そして今している授業スタイルも認知度を上げていくことの重要性を感じました。これふたつめの学びに大きく関わります。

 

ふたつめ。

人として魅力的であること。

買い物をする時、なにかいい「機能」を求める時代から誰から買ったかとか目に見えることのない「意味」を買う時代に変わりつつあるというお話がありました。今の市場では「意味」=人であると言います。同じ美味しさのラーメンで値段が800円のものと1000円のものがあったとします。機能と値段だけでみたら800円のものを選びますがもしも1000円のラーメンのお店が自分の親友が営業していたら僕は1000円のラーメンを食べに行きます。その200円分は応援のような「その人」にお金を出したことになります。

 

工業化社会の軛が壊れた時、僕たちのしている授業スタイル?生き方?は最初は機能として価値があるのかもしれません。でも認知度がこのまま上がり続け、普及度も上がり続けたら。?

 

僕達先生は「人」をより一層見られる時代がもうすぐそこなのだなと感じました。だからこそ人として魅力的でありたいと思いました。

 

おまけ。

何も言わずに学級文庫に置いてみるともう手にとる子が。ちょっと昔の僕だったら4年生が?!?と思っていたかもしれませんが4年生だろうと読む子は読むのだろうなと。不思議と驚きがあまりありませんでした。

嫌いだったけど。

僕は理科が嫌いでした。

物質はたくさんの分子でできているって言われたってそれが目に見えないし本当かも分かんないから、それがなんか納得いかなくて嫌でした。

 

「昨日、星を見て色んな星が見えたんだ。!」

持ち帰ったはずの星座早見盤をわざわざ持ってきて僕に一生懸命説明をしてくれた子がいました。

 

星も一緒。あれは何億光年先にあって何℃でなんて話を聞いてもいまいちピンと来なくて僕にとって星はただキラキラしている綺麗なものでしかありませんでした。

 

そんな話をしました。

 

すると目に見えない代わりに違う何かが教えてくれるんだよ。今空気の勉強してるけど空気は目に見えない代わりに押すと押し返してくれるでしょ?だから実験をするんだよ。

 

なるほど。言われたら当たり前のことですが妙に腑に落ちました。

 

この子が僕の同級生にいたらもしかしたら僕の理科はもう少し楽しかったのかもしれない。って思いました。